2009年09月22日

下村湖人

生まれて間もなく里子に出されますが、4歳の時に実家(実家の姓は内田)に戻ります。佐賀中学校時代から、雑誌に詩歌を内田夕闇(うちだゆうあん)の筆名で投稿。このころから、高田保馬、中島哀浪、山口亮一らと親交がありました。熊本の第五高等学校では、高田とともに五高校交友誌「龍南」の編集委員を務め、その文才は五高随一と謳われました。東京帝国大学在学中には、「帝国文学」に小説や詩歌を発表し編集委員を務めます。

 大学卒業後は、学資支援等を受けていた下村辰右衛門の長女菊千代と結婚し養子に入り、佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長を務め、さらに同郷の田澤義鋪の勧めで台中第一中学校校長・台北高等学校校長を歴任。1931年に教職を辞任し、1933年に田澤が主宰していた日本青年館別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となります。

 1932年より、筆名を虎人から、湖人に変更。1936年から代表作と言える小説『次郎物語』の執筆を開始。1954年までに全五部を刊行します。予定では第七部まで続く予定でしたが、病を患ったため果たせませんでした。

 1938年に壮年団中央理事。翌年には「煙仲間運動」を提唱。1947年、NHKで「郷土建設と小豆島の煙仲間」を放送。1948年には、個人雑誌「新風土」を刊行し、『次郎物語』第四部を執筆します。1953年に全日本青年産業振興会顧問兼監事。翌年に『次郎物語』第五部を刊行し、田澤義鋪の伝記『この人を見よ』を脱稿しますが、病床に伏します。1955年4月20日午後11時2分、70歳で死去。
posted by ss at 01:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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