2009年12月06日

社会教育者辞典 成田久四郎より

下村湖人(一八八四〜一九五五)

 下村は明治十七年十月三日、佐賀県神崎郡千歳村、父内田郁二、母つぎの二男として生まれました。虎六郎と命名され生後間もなく里子に行きます。当時の家族は父のほかに、祖父母と二歳上の兄がいました。五歳の頃、家産傾きはじめ、父は郡役所に就職のため、妻子と共に神崎町に転住、十歳のとき母と死別、十五歳頃父殆ど完全に破産し佐賀市精町に借家、税務署に就職。その間、とにかくにも明治三十九年二十二歳で熊本五高を卒業、東京帝国大学文学科に入学、英文学専攻、夏目漱石の講義に興味を覚えました。明治四十二年東京帝国大学文学科を卒業、十二月、一年志願兵として入営、大正二年一月、陸軍歩兵少尉に任ぜられ、大正十二年三月、勤務演習召集陸軍歩兵中尉に任ぜられているのも、彼の風格から想像もつかない経歴です。サーベールをつった姿がさぞどんな姿だつたろうと興味をそそられます。

 大正二年三月下村家長女菊千代と婚約。同時に父と下村家との間に養子入籍の約があったのを知り、少なからず苦悶したが父に義理人情を説かれ承服し、同年十二月に結婚しました。大正三年に実父病死、内田一家離散、このような彼のたどった数奇な運命こそは後年、不朽の名作「次郎物語」の素材となったことは、ほぼ想像に難くありません。

 さて下村は明治四十四年十二月から母校佐賀中学に教鞭をとり、大正十二年二月唐津中学校長、同十四年六月台湾総督府台中第一中学校長、昭和四年十一月台北高等学校長とひたすら教職の道を歩み続けました。

 昭和六年九月台北高等学校長を辞し、東京都新宿区百人町に定住、それから間もなく大日本連合青年団の無給嘱託となり、田澤義鋪を助けて調査部につとめることになったのが一転機となり、青年団運動に身を投ずることになりました。それは長い学校教師生活でかつて味わったことのない求めつづけていた真の教育に触れる思いでした。

 昭和八年四月、青年団講習所長(浴恩館)となり、その間同十一年一月「次郎物語」の執筆に着手、雑誌「青年」に連載、同十二年頃より軍国主義の影響が著しく青年団内に及び同年三月には連載中の「次郎物語」中止。四月には青年団講習所長辞任、自由な講演と文筆生活に専念することを決意しました。昭和十四年頃「煙仲間運動」を起こし全国各地を遊歴しました。同十六年二月「次郎物語」第一部を出版したのでした。

 青年団講習所における下村の指導精神は、まず講習生に対して、「この浴恩館は絶海の孤島です。われわれは絶海の孤島に漂流して来て偶然この離島で顔を合わせました。そこで第一に、まず愉快な共同生活をはじめる努力、第二に心を深め合いお互いに相手を伸ばし合うような仲よしになる努力、第三はお互いが仲よく伸ばし合うために最も都
合のよい組織をつくりあげる努力の三つをあげて、これを実現するには、この離れ島には伝統も、しきたりも何もありません。無論漂流した者同志で指導者も先輩もありません。この島の生活にみんな無経験だ、お互いがめいめいの知恵をしぼり、その努力によって組織をつくりあげていくより仕方がありません。そこで非常に大切なのは自由創造の精神である」と説いています。

 また晩年昭和二十七年八月、日青協主催の第二回青年団指導者養成講習会の講師として彼のゆかりの浴恩館におもむき、リーダーシップについて講義しました。講義内容は前述の指導精神を説き、彼の好んで使った「白鳥芦花に入る」の名句の引用が印象に残りました。その頃から健康がすぐれず、カリエスで足首と手首に白いホータイを巻いて、ビッコを引きながら講義する姿が目に恥みていたいたしかったです。

 青年団精神を植え付けるために情熱を傾け、また一方日本にまれな一大教育小説をものにした下村は、長年の辛苦に加えて老人結核にむしばまれ、その死期を早めました。その五部が出版された翌年の昭和三十年四月二十日自宅でその生涯を終わりました。享年七十一歳でした。

社会教育者辞典 成田久四郎より
(文章・文体は変えてあります)
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2009年12月05日

下村湖人の生家

下村湖人の生家


「次郎物語」の作者として知られている下村湖人の生家です。明治時代の初期に建築され、この家で湖人が幼少期を過ごしました。昭和45年下村湖人生家保存のため、下村湖人生家保存会によって買収、修復されました。また、平成9年から10年にかけて、傷みのひどくなった瓦や屋根を「瓦一枚募金」によって修復されました。この生家は明治時代初期の建造物として、また次郎物語第1部の舞台として非常に貴重なものです。毎年10月3日に行われる湖人生誕祭や小中学生の交流の場として活かし残していくとともに、下村湖人の業績をたたえ、また精神文化の拠点なる重要な文化財として大切に守られています。


〒842-0065 佐賀県神埼市崎村

交通アクセス 佐賀駅からバスで30分
営業期間 休業 : 祭日の翌日
休業 : 月
0952-44-2384

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2009年09月22日

下村湖人

生まれて間もなく里子に出されますが、4歳の時に実家(実家の姓は内田)に戻ります。佐賀中学校時代から、雑誌に詩歌を内田夕闇(うちだゆうあん)の筆名で投稿。このころから、高田保馬、中島哀浪、山口亮一らと親交がありました。熊本の第五高等学校では、高田とともに五高校交友誌「龍南」の編集委員を務め、その文才は五高随一と謳われました。東京帝国大学在学中には、「帝国文学」に小説や詩歌を発表し編集委員を務めます。

 大学卒業後は、学資支援等を受けていた下村辰右衛門の長女菊千代と結婚し養子に入り、佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長を務め、さらに同郷の田澤義鋪の勧めで台中第一中学校校長・台北高等学校校長を歴任。1931年に教職を辞任し、1933年に田澤が主宰していた日本青年館別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となります。

 1932年より、筆名を虎人から、湖人に変更。1936年から代表作と言える小説『次郎物語』の執筆を開始。1954年までに全五部を刊行します。予定では第七部まで続く予定でしたが、病を患ったため果たせませんでした。

 1938年に壮年団中央理事。翌年には「煙仲間運動」を提唱。1947年、NHKで「郷土建設と小豆島の煙仲間」を放送。1948年には、個人雑誌「新風土」を刊行し、『次郎物語』第四部を執筆します。1953年に全日本青年産業振興会顧問兼監事。翌年に『次郎物語』第五部を刊行し、田澤義鋪の伝記『この人を見よ』を脱稿しますが、病床に伏します。1955年4月20日午後11時2分、70歳で死去。
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